三河の花火師

花火の製造から打ち上げまで

豊橋手筒花火

仰空信道

幸田の如意寺の僧である仰空信道は、稲留流の打ち上げ花火に工夫を凝らし一派を編み出し、良光流と号しました。 信道は隅田川の川開きに花火を送り、三河花火の名声を上げたと言い伝えられています。 また座敷花火を考案して、江戸の大名屋敷や料亭に送り玩具花火をも広めました。 信道は「流星」に長じており、須美神社の奉納花火に大型の流星を打ち上げ、五十本の傘を開かせたといいます。 信道は1826年に没し、墓は同寺にあります。

鶴田民蔵

岡崎地方の花火は、稲留流を中心に発展してきました。 文化・文政期の打ち上げ花火は矢作の新堀村や西本西郷村の稲留流の花火衆によって作られ打ち上げられています。 菅生川原の花火も彼らによって出されました。 新掘、西本郷には稲留流花火の誓紙が1799年から1879年までの34通残っており、これには花火の製造と打ち上げの許可を求め、技法の秘密と事故防止を誓ったものと、火術伝授のお礼と秘密を誓ったものがあります。 奥殿村には仕掛け花火に優れた花火師・鶴田民蔵がいました。 稲留流を伝授されて工夫重ね、文政年間に火色と仕掛けに卓越した技術を示しました。 奥殿の熊野神社祭礼に打ち上げ花火と仕掛け花火を出していましたが、彼によって世間にその名を誇るものになります。

中根泰蔵

奥殿村にはもう一人の花火師、奥殿藩士・中根泰蔵がいました。 稲留流を学び、刈谷藩砲術から派生した荻野流花火も研究し、一光流を創出します。 1896年の一光流火術姓名記によると、県下各地をはじめ、長野、富山、石川の各県にまで弟子が広がっていたようです。