三河花火の起源

三河花火の立役者

仕掛け花火のイメージ

稲富直家

丹後宮津城主の細川家鉄砲指南稲富直家は、同家から追放されましたが、家康は彼の技術や才能を惜しみ、召し抱えました。 しかし技術上の口論から同僚を斬り、尾張徳川家預けとなります。 尾張藩では直家を指南役に用い、鉄砲や火薬の製造に当たらせました。 直家は製法に工夫、改良を加え稲富流と称されますが、直家は出家し一夢斉と名乗ったので一夢流ともいわれます。

沢田四郎右衛門

その後今の足助町岩神に住む沢田四郎右衛門が稲富流を学び、西三河に伝えます。 火術・砲術家は一流一派を興し、門弟に秘術として伝えられてきました。 太平な時代になり鉄砲の重要性は弱まりましたが、幕府は鉄砲・火薬の製造には厳しく制約をして火術・砲術の秘伝、秘密性は明治に至るまで続きます。 武士である火術・砲術家は、軍事用の烽火の技術向上に励み、いろいろな色の煙、布切れを打ち上げて合図や通信するといった方法を完成させていきます。 こうした中で庶民に伝わった火術が花火製造、花火師を誕生させました。

鍵屋弥兵衛

1648年に江戸市中で花火を出すことを禁止されていることから、この頃には江戸の町人たちが盛んに花火を出していたことを知ることが出来ます。 1659年に鍵屋弥兵衛が葦の管に火薬を練って丸めた小さな星を入れて売り出します。 鍵屋は1717年にも、水神祭の献上花火を打ち上げました。 その頃から大型の花火がつくられ、見る花火が現れはじめます。 三河の地でも祭礼の余興に、しばしば花火が出されていました。 豊橋の吉田神社略記によると、1560年に流星や手筒が出され、1688~1703年頃から仕掛け花火や手筒が大型化したようです。 岡崎の地も同様に祭や行事に花火を出していましたが明和7年に城主が交替し、本多忠肅が入城す際、費用節約のため領内に花火を出すことを禁じています。 これは、この頃盛んに花火を出していた証拠でもあるでしょう。